特殊能力ではない

 着実に言葉を覚えつつあるYuですが、特に言語の区別はありません。時に英語を使ったり日本語を使ったり、韓国語、中国語と挨拶程度なら何語かは関係なくつかいます。もちろんぺらぺらに喋れるのではなくて、断片的に、自分が覚えた単語をつかっているだけですが、周りにいる友達が国際色豊かなので、何でも吸収してしまいます。発音も、親の発音なんか屁のようなもので、始めからBBQグリルは、BBQ”グリィウ”だし、How's it going?は "ハゥズイッゴーィン?"です。英語に対して特別な意識は無く、生きていくための"ツール"として獲得していっているのです。NativeEnglishSpeakerにとって英語の発音がいいのは、いいのではなくて普通、日本人が日本語の発音がいいのが普通なのと同じです。今いる環境を生き抜くために順応しているのだと思います。当然、アメリカで生まれたり、育ったりした子供は人種、出身国によらずNativeな英語の発音を獲得します。
 最近ふと思うのは、この発音も、日本に帰国して日本で暮らすようになると、マイノリティーになって萎縮してしまうんじゃないか?ということです。よく帰国子女の人たちの話で聞くのは、学校(中学、高校)で習う英語は、英語の先生の発音がジャパニーズイングリッシュなので、生徒のうちの少数がいい発音をしても、それ以外のマジョリティー(学校だけでなく近所、友達からも)から奇異なものを見るような目で見られるようになり、結果として自らジャパニーズイングリッシュの発音でわざと喋るようになる、という話です。マイノリティーで出る杭になって打たれるよりも、マジョリティーと同じ行動をして身を守る方法を取ると言うのです。
 何でこんなことが起こるのかを考えてみると、日本では英語が喋れることがなにか特殊能力をもっているかのような印象が漠然とあって、英語を流暢に喋っても、「何カッコウつけて言ってるんだ!」「ここは日本だぞ!」と周りから暗黙のプレッシャーがかかる雰囲気があるのかもしれません。
 デーモン小暮のブログにもそんなことが書いてあったので以下に引用します。

http://demon-kakka.laff.jp/blog/2009/07/jul24dc11-e1f2.html
去る7月15日の赤坂での討論会における吾輩の発言について、ニュアンスがちょっと正しく記されていないレポートが存在するので、ここに公式コメントをしたい。
 吾輩は『皆さん、「2」は「ツー」ではなく「two」と発音しましょう!そろそろ皆さん発音できるでしょう?』と、そんな単純な提案を今更したのではない。吾輩は以下のようなことを述べたつもりである。
NHKBS放送が今年で20周年を迎えている。しかし相変わらず番組紹介の時など、ナレーションでは「ビー・エス・ツー」と言っている。(一時「BS two」と発音していたナレーターもいたが、すぐにいなくなってしまった。「何カッコウつけて言ってるんだ!」「ここは日本だぞ!」みたいな守旧的横やりが入って「無難に」もとに戻したのだ…といった展開が想像される)
 吾輩は思う。放送が開始した20年前からナレーションを「BS two」と、ず〜っと発音し続けていたら、つまり20年前からコツコツと小さなことでも積み重ねておけば、今頃成人を迎える連中の多くは自然に「2」を「ツー」ではなく「two」と発音するようになっているはずだ。子供というのは大人になってしまった者からでは計り知れない吸収力をもっている。だから「根気よく何年も先を見据えた教育方針」を立てることは、国の将来にとって非常に大事なことではないかね?』と。『それができていない日本人の体たらくは悪魔にとって目出度い限りだ』と。

 言葉はあくまでコミュニケーション"ツール"であって、何の特殊能力ではないことは、実際に日本以外に行ってみると解ります。多国籍が集まる場所では、色んな言語を知っていたり、喋れる人はポジティブに見られることはあっても、"何カッコウつけているんだ"と見られていることは見た事がありません。日本で英語に対する守旧的な雰囲気があるのは、一つは啓蒙活動と教育方針が悪いことで、意識が変わらないことが原因なんだと思います。どの人も中学、高校と6年以上英語を習ってきているのに、いつまでたっても日本人で英語が喋れる人が多くならないのも、発音がよくならないのも、この辺に原因があるのかもしれません。「日本だから日本語で話せよ!」なんて言うのは、実は彼らに違和感を感じさせているのかもしれません。日本でやけに流暢な英語を話す子供がいても、奇異な目で見ることなく、温かく見守っていてほしいものです。
 しかしデーモン小暮も結構いい事いうな...