科学VS感情論2

 一部だけの抜粋ですが、これは本当にそのとおりだなぁと思った内容。日本人である自分を振り返っても、例外ではないんですが、客観的な観点からの議論の仕方は、経験を積んでいないとできないですから、教育の段階で土壌のない以上、できるわけもないんですね。ある意味し方がないことなんでしょうけど、問題なのはそれを自覚していない状態で、議論をすることなのだとおもいます。一生懸命議論をしているつもりでいてもなんか違うはぐなときは、大抵この状態に陥っている気がします。

いつ来るか分からない15分のために常に準備をしているのがプロ、デザイナー奥山清行による「ムーンショット」デザイン幸福論
http://gigazine.net/news/20110908_moonshot_design_cedec2011/

面白いのは日本の議論の仕方っていうのが、何かと個人攻撃になってしまうこと。これは日本の言葉の作りっていうものがどうしても目上とか目下とか、男性とか女性とか、自分の相手に対する相対的な位置を示す感情を表す言葉があるのに対して、英語とかイタリア語っていうのは非常に少ない言葉で情報の内容を的確に相手に伝える言語の作りなんです。だから、誰が何を言うかってことは重要なじゃなくて、その話の内容の方が重要だって順序になってる。だから日本語で、実は個人攻撃にならない議論の仕方というのは非常に高度な議論力が要るというふうに思います。僕はこれを小学校で教えられなかったので、社会人になって必死の思いでイタリアで勉強しました、議論の仕方というのを。この「議論の仕方」をひとつの技術として、僕らは学ばなくちゃいけないんだなってつくづく思いました。