アメリカのトルネードで思う日本の状況

 昨日の竜巻で300人以上が亡くなったそうです。例年なら竜巻での死傷者は一桁で、被害もここまで後半ではないそうですが、今回の竜巻はありとあらゆるところで発生したことが、例年との違いなようです。


http://www.nytimes.com/interactive/2011/04/28/us/map-of-the-tornadoes-across-the-south.html?ref=us

 このNYTimesのMapを見ると、竜巻は南はTexasから、北はNY州までの広範囲で発生しています。こんなことは初めてかもしれません。亡くなった方のご冥福をお祈りします。

http://www.nytimes.com/2011/04/30/us/30storm.html?_r=1&hp

 新聞、ラジオやテレビでは、市長や州知事が復興に向けての演説をしています。大統領も現地を訪れているようですし、首長の力強い演説は被災をした人たちにとっては勇気付けられるものでしょう。日本の場合、首相が何か言ってももはや話半分にしか聞こえないのはとても不思議な現象です。東電の幹部が何を言っても何か重要な事を隠して責任を回避しているようにしか聞こえませんし、大臣が何をやってもウソ臭く見えて仕方がありません。

何で日本では、ウソ臭く感じるか

 なんで日本ではエライ人たちが何を言ってもウソ臭く感じるんでしょうね。恐らく、彼らは一番肝心な事を置き去りにしてきて、どうでもいい事ばかりがメディア上に取り上げられてきていることが理由の一つでしょうね。
 東電は以前から何度も指摘されてきた津波に対する防災対策をすることが肝心なことだったのに、それには何も手を打ちもせず、事が起こってから事故が起こったのは想定外の災害だったからと繰り返しています。一番肝心なことはスルーしておいて、今更後出しじゃんけんのように言い訳をされても信用できるわけはありません。
 政府は初動のときに原子力の専門家を派遣するなどの対応をしておらず、対応がごてになった結果、水素爆発やメルトダウンを招いておきながら、アンゼンアンゼンと繰り返しています。保安院、安全委員会、政府の閣僚も役人も、現場の様子を直接把握することなく、机上で物事が決められていく。肝心な事にはオンタイムで対応していないのに、アンゼンアンゼンとオウムのように繰り返すことが、不信を買う構図のように思います。

政治に限らない

 ただ、この構図は政治や非常時に限らず、日常的に誰にでも起りえることかもしれません。会社の上司の判断、学校の先生の方針、家庭で親の言っていることが2転3転するときには、なにか肝心な事を等閑にして、その場しのぎの判断をしようとしていることが多い気がします。仕事のプロジェクトがうまく行かないときでも、問題の根本はどこか振り返ることができるかで成否が決まってきます。失敗したときにどこまで戻ることができるかによって、その後成果を上げられるかどうかが決まるはずです。問題点の根本を掘り下げていけば、根本的な打開策が見つかりますが、その場しのぎの小手先ばかりやっていても、その後でまた問題が起こるのは目に見えています。結局、政治でも仕事でも、家庭でも問題が起こったときの構図は同じなのかもしれません。

思想のハッキリした方針を示して行動してほしい
 じゃあ、今政府はどうすればいいのかといえば、根本的な考え方を変えるしかないと思います。原子力事故の処理については今進行中のやり方にどうこうできるわけではないでしょうが、その他の対策を根本的に見直してほしいと思います。みな、部署ごとに小手先で決め事を作っていますが、何の思想も方針も無くただ官僚的なやり方で決められていることが多いように思うからです。まず根本の方針を示して、それに沿ってやってほしいと思います。被曝限界量を決めるにしても、根本的な方針にあった基準かどうか、決める前に照らし合わせてから決めるべきで、どこか別な誰かがそれでいいといったから、それを追認するようなやりかたをやめてほしいと切に思います。

部品に甘んじないことの必要性

 人は組織の中で行動すると、その一部として行動しなくてはならないことが多くあります。例えば、何かを決定するプロセスに自分がいても、決定権自体は自分に無い場合、考える事をやめてしまう傾向にある気がします。普通に考えれば何かおかしいことは漠然と分っていても、立場的にそれに異議が唱えられないと思い込んでいて、考える事をやめてしまう。おかしな基準の決定に関わった官僚や委員の思考方法がそれに似ています。プロセスに関わる人一人一人がこういう思考停止を起こして、それが重なっていくと、政治的にとんでもない決定がされるのかもしれません。自分が一部品でしかなくとも、考える事をやめてはいけないと思います。

 この思考構造は日本特有のものかもしれません。人間関係では階層的な関係が殆どである日本社会では、仕事上でも上司が常に決定権を持っていて、自分はかかわってはいても自分の意見を戦わせることはあまりないと思います。少なくとも元から上司と対等な立場で話をすることはありません。実際、仕事上の会議で、上長の言う事をまず聞いてからそれにあわせた意見を言うような傾向はありませんか?失態をしないように、可もなく不可もない意見を言うことで、その場を凌いだ経験は無い人はいないはずです。あなた自身の考えはなんですかと聞かれて即座に自分のアイディアを披露できる日本人は少ないはずです。こういう環境の中で慣れていくと、人間関係の階層構造と、客観的な意見を対等にぶつけ合うことを区別できなくなるような気がします。

それでも起きる思考停止
 いくら、自分の考えを持ちなさいよ、といっても現実的には個々人が組織の中で自分の意見をいえるような状況になるとはとても思えません。長年培ってきた文化や教養とされるものがそれを許さないでしょうし、上長の立場の人がそれを許さない可能性も十分考えられます。いわゆる官僚文化では、そうしないとなぜか生き残れない体質があるでしょうし、ある側面から言えば自分の意見を持たないで行動しなくてはならない仕事があるのも事実です。じゃあ、どうすればいいかといえば、それを分った上で意思決定システムを組みなおす必要があるはずです。それは政治主導とかそういうパフォーマンス的名ものではなくて、責任を明確にすることです。その決定に関わった一つ一つのプロセスをハッキリさせて、どのプロセスの結果が、誰に直接責任があるのかを法的にハッキリさせるべきです。決定権が一箇所に集まるのではなくて、各レベルでの決定権をハッキリさせることで、思考停止状態に陥る可能性がある立場の人間でもすくなくとも自分が関わったプロジェクトには責任を持つようになるはずです。