語学よりも人間関係

 中国人の友達の紹介で日本人の友達ができました。まだアメリカに来て1ヶ月で、電話もなければ車もない、来たてほやほやのポスドクTR君です。とても礼儀正しく、日本人らしい、日本人で本当に頭が下がります。どちらかというといい加減なTkからすれば、日本人から好かれそうな日本人だなぁと、感じてしまいました。
 そんなTRを連れてこの間のISNピクニックに行って来ました。なんだかよくわからないまま知らない人たちの間に放り込まれたTR,一生懸命英語で話している様子は、ちょっとほほえましく感じました。
 自分が渡米してきたてのころは、やっぱりああやって一生懸命で、つたない英語で喋っていました。彼よりよっぽどへたくそな英語で。もっとも今でも一生懸命拙い英語を喋ってますけど...
 それでも2年アメリカにいて少しはマトモになった気もします。始めの頃は、通じなくて落ち込んでいたり、身近にいた日本人に間違いを直してもらって感謝しつつも凹んでいたりしました。言葉が通じないっていうのはこれほど情けないことなのかとつくづく感じていました。大体1年位はそうだった気がします。いきなり通じるっていうのはドダイ無理な話で、徐々に徐々に言葉って獲得していくものだと思います。アメリカ人の友達ができて、徐々にコミュニケーションができてきたときぐらいから、多少は生きていけていると実感できたのだと今思えば思います。
 日本人はどこへ行っても結局日本人ですから、英語を喋れるような気になったところで、限界があります。けれど、友達ができて自分の仲間とのつながりがあれば、社会の仲間に入れた!という実感がわいてきます。言葉よりも、ソサエティーに入れてもらった、ということのほうが実は大切なんだと気づかされました。これは日本人で日本に住んでいるとあまり感じないかもしれません。実際アメリカにいても日本人ソサエティーの中だけで付き合っている人たちは、ちっとも英語はうまくなりません。
 2歳に満たないYuを見ていても、自分が喋ったことが通じたときの嬉しさといったら、大人のそれよりも余程大きいようで、その表情から見て取れます。だからこちらも何を喋ったのか一生懸命汲み取ろうとします。コミュニケーションが取れたときは喋れないほうも、喋れるほうも、達成感があって、気持ちいいものです。語学そのものよりも、伝える気持ち、汲み取ろうとする気持ちがコミュニケーションを作っていくのです。