被害の規模は戦争並み

 下記に引用する記事は、Tkが時々読ませてもらっている合気道家のブログの最近の記事です。この方は宮城県在住らしいのですが、現地では津波地震の様子は電気が復旧するまではほぼ全容は分らなかったことがわかります。それだけメディアの情報は電化製品がないと得られないといえます。今回の災害での被害、損害は一定規模の戦争並みだという言葉は、まさにその通りだと思いました。災害ではありますが、今までの規模とは違う、まさに戦争の後のようです。しかし政府の対応は地方災害レベルの認識でしかとないというのには、同感です。被災した人だから言える実感のこもった言葉かもしれません。

150≫ うろたえるな -- 合気道ひとりごと

(前略)
 停電により、その後数日間にわたって情報が途絶したために、正確な被害状況がわかりませんでした。ラジオが唯一の情報源でしたが、『仙台市若林区で二百人ほどの遺体が道端に倒れている』とか『仙石線の電車が行方不明』という地震直後のニュースがいったい何を意味しているのか、さっぱり理解できませんでした。巨大津波ありさまを知ったのは1週間もたってからのことです。被災地以外のところでは津波を含めた震災被害がリアルタイムで放映されていたのに、情報にもっとも疎いのは一番情報を欲している人たちであるというのがよくわかりました。

さて、その後の被災者救援や原発事故対応などでの国をあげての(正確には為政者の)ドタバタぶりは目を覆いたくなるほどです。2万人を超える死者・行方不明者や概算25兆円にのぼる一次被害額など、どれをとっても一定規模の戦争並みの損害を出しています。であれば国のとるべき方針は戦時体制に準ずるものでなくてはならないのに、実際にやっていることは少々範囲の広い地方災害というレベルの認識にもとづくものであるとしか感じられません。戦争であれば、たとえば、戦場は東北地方だからとりあえず九州は関係ない、とはいえません。国家総動員といえば時代錯誤かもしれませんが、少なくとも為政者の覚悟はそうあるべきだと思うのです。

 ただし、それは国民みんなが同じ事をしろということではありません。一方で悲嘆にくれているときでも一方で活発に日常活動をこなしていく、これが国としての強さであると思います。

 今回のタイトルは≪うろたえるな≫です。はっきり申し上げますが、これは一般の国民を想定したものではありません。震災の被災者はもちろん、放射線被害を心配する周縁住民がうろたえるのは当たりまえのことであって、それはある意味で護身の行為です。そうではなくて、問題はどこまでいっても為政者ならびに公共的事業の責任者です。ちっとも顔を見せないと思ったら地震から2週間ぶりにテレビに出てきて全く意味のないことを言うだけの人、400m走でもしてきたかと思えるような完全に息のあがった状態で原稿を読み上げる人、いいならいい悪いなら悪いとはっきり言えない人、どれもこれも事態の沈静化に寄与しない、なくてもよい情報発信者ばかりです。非常時にこそ輝いた見習うべき偉人が過去日本にはいくらでもいたのですが、その方面のお勉強はお嫌いだったのでしょう。

 半月も経つのに、今の日本で、握り飯を一個配ってもらって涙を流して感謝している人がいることをなんと思うか、一番偉い人に聞いてみたいものです。ですから、怒りと悲しみをこめて彼らに一言申し上げます。『うろたえるな!』

(後略)