データを公平に見る目を養う為には

 最近の大阪地検特捜部の証拠捏造の一連のニュースを見ていると、ガックリします。こうやって冤罪が作られていっているんだと思うと、どの業界でも水面下で色んな捏造が日常的にあるのかと疑ってしまいます。


 研究者による捏造も良くありますね。阪大の捏造事件なんか新しいところですが、トップジャーナルに研究を発表したベテラン研究者が捏造をしていたなんてニュースは定期的に入ってきますし、それによって2次的な事件も起こりました。また、やはり阪大の医学部で、医学部の学生がNature系の雑誌に発表したデータがPhotoshopを使って加工していた図を使っていたなんてお粗末な捏造もありました。あの学生はその後医者になったんだろうかと思うと、ゾッとします。科学者が1度でも捏造をしてしまったら、その科学者はサイエンスの世界を去るべきだと思うし、捏造をした医者は、医師として働く資格はないと思います。


 データを捏造して思い通りの結果に意図的に持っていく作業をしたところで、しばらくたって(もしくは何十年後かに)そのズルがばれてしまったら、それに関わった膨大な作業が一瞬にして徒労に終わってしまうのは自明です。それ以上に、捏造をすることに後ろめたさがないことも問題です。



 データを正直に見る、そのデータが自分が描いていたものと違ったとしても、それを事実として受け止める。そういうことの大切さは、教育の過程で教えられていない気がします。科学の実験は、小中高校の理科や物理、化学の授業で多くありますが、実験とはそもそも何か、実験で得られたデータをどう見るのか、データから何が読み取れるのかを面白く、かつ真摯に教える先生はどれくらいいるんでしょうね。過去に関わった学校の先生たちは、実験の授業をただ作業として淡々とこなしていたように記憶しています。唯一、高校生物の実験はエキサイティングでした。結局、科学教育の現場で、どれくらい先生が情熱的に面白さを伝えるかで子供たちの中に芽生える興味や意識が変わってくるのでしょう。


 阪大の捏造事件が続いた当時(2005-2006年当時)、大学院にいましたが、突如”科学者の倫理”について書かれた冊子を配られたり、それについての授業が新設されたりしました。捏造があって、それから倫理について授業をしたところで、もう既にそこまでの年齢になっている大学院生には、警告にしかなりません。それよりも、初-中-高等教育での科学教育で”見る目”を養っていくほうが余程効果があるはずです。

 
 科学教育と地検の捏造事件は直接的には関係ありませんが、データを公平に見る目を養うには、科学教育が強く影響するに違いありません。