言えない社会

  昨日、夜のニュースで知りましたが、報道ステーションで元経済産業相官僚の古賀さんが、降板の裏話と官邸からの圧力の話をして話題になっているようですね。その話を週明けに知りましたが、

 

 官邸からの圧力云々の話は第3者にはわからないことが多いのでともかく、この社会は全体的に、勝手に自粛をするムードに支配されやすいのは常々感じます。エライ人の運営方針や方向性に反しないように、それ以外の人が行動を自分で制限してしまっています。それも無意識に。自分では、自分ははっきりものを言っていると思い込んでいるポイントです。

 

 職場でも、部門のトップの意見は正しいかどうかに寄らず、不可侵のように扱われて、それに否定的な意見することはあまりありません。外から中途で入った人からすると、一種気持ちの悪い統一感があるのは、どの組織でも同じなんじゃないでしょうか。

 

 その時の常識やルール通りにやらない人はそれだけで外されます。オフィシャルのルールに従わない場合はペナルティーがあるのはいいのですが、オフィシャルでないルール、慣習や、その組織の中でしか通用しない伝統に従わない場合に、厳しい批判を浴びることが多い気がします。面白いのは、そういう少数派をつぶすのは、且つ同じ階層の人たちであることが多いことも特徴のような気がします。

 

 全体的に、エライ人、エラクない人の区別を無意識にして、そのうえで会話を作っていく、そんな雰囲気を感じることもあります。言葉の端々で、あのひとはエライから、とか、エライ人が決めたことだから。。という発言を聞くことってありません?エライヒトってのは、多分その人をエライヒトと呼ぶ人たちが勝手に思っていることなんじゃないかといつも思います。エライヒト扱いされている当の本人はそう思ってないけど(そうでない場合もあるが)、エライヒトをそういう風なポジションに据えることで、不思議と社会が回っていく、という現象のような気がします。

 これがうまく機能することもあるし、機能する集団もあるのですが、その枠から出た行動をするメンバーが出てくると、”秩序”が乱れるので周囲からの抑制がかかる。

  よく、小学校のクラスで起こる、”せんせーに言ってやる”というのもその一つで、ルールを決めているのは先生で、先生は子供にとってエライヒト。エライヒトが決めたルールをみんなが守らなきゃいけないから、一つでもスタンドプレーが出ると大多数の人間が、それをいけないことと認定して、エライヒトに言いつけるぞと圧力をかける。

 まあ、言い過ぎかもしれないけど、この構図に似たことは社会の色んなレベルで起こっていると思います。家庭でも起こり得るし、職場でもそうだし、政治でもそうだし。

 そういう点で、彼がコメントの最後の部分で言っていたこの言葉は共感ができます。

「圧力や自粛に慣れてしまって、知らないうちに自分が変わってしまって、本当の大きな問題が起きているのに気が付かないということにになってしまう。」

 

 おかしいと思ったことはおかしいと言えないと、大きな間違いであったことに、ことが起こってから気づく。気づいてからでは遅いのですが、ことが起こらないうちは、周辺からの抑制がいつも働いていて、意見を言う人を抑え込んでいる、そんな気がします。