区別

これも雑感。

 何かを話し合いで解決しようとするときに、気をつけなくちゃいけないことは何かといえば、”相手の意見と、発言者の人格を同一視しない”ことでしょう。自分の意見を批判されたり、反対意見を言われると、自分自身の人格が否定されたような気になる、もしくは、逆に相手の意見を批判しているつもりが、相手の人格を否定するような言い回しになってしまっている。こうなると、もう議論にはなりません。

 

 しかし、得てして話し合いの時にはこうなってしまいがちです。話の本筋や、意見そのものよりも、発言者自身が何者か、どういう立場か、どういう言い回しをしたのかのほうが重視されがちのような気がします。同じ意見を言っても、目上の人が言ったか、年下が言ったかで受け取られ方が違うし、どういう言い回しをしても、相手には人格否定に取られることもあります。

 

 意見は意見としてとらえることができるようになるには訓練が必要だし、大抵の人はそういう訓練を受けていません。Scientificな話をするときに出さえ、Discussionになれていないと、自分の意見を軽んじられた、とか、あしらわれた、と感じがちです。日常生活ではなおさら。だから、何かというとすぐにジャンケンで物事を決めたがるのだと思います。決定権を運に任せると、だれの責任にもならないし、すべてあいまいのまま誰も嫌な思いをせずに役割を分担することができますからね。でも、じゃんけん文化は、話をする能力を著しく下げる原因になっている気がしてなりません。

 

 この問題は、話をする人が二人いたとして、どちらかが意識していても、相手が”区別”を意識していない人だったらうまくコミュニケーションはできません。人格と意見の区別、いつも意識していたいことの一つです。