すり替え

 日本に戻ってきて、2年たって、もう違和感なくなじんでいますが、日々の生活では色んなことにギャップを感じます。色んなことに妙な違和感を感じているなかで、共通点は何かを考えることがあるんですが、その一つに”言葉のすり替え”があります。

 

 たとえば、日本育英会、今でいう日本学生支援機構奨学金制度。奨学金と銘打ってはいますが、結局利率の低いローンでしかない。アメリカで奨学金というと、返済無しの給付されるものが奨学金で、貸与奨学金なんてものは存在しません(私の知る限りは)。お金を借りるときはローンを組んで借りるので、それを奨学金なんて名前で商品化しようものなら、多分訴えられるんじゃないかと思います。その代り、ローンの返済はきっちりされるでしょうけど。これも言葉のすり替えで、ローンというと借金というネガティブなイメージがつきますが、奨学金という名前にしておけば学生たちが積極的に借りようという意識がわくような気がします。返済に関しては何も変わらないのに。

 

 携帯電話実質ゼロ円:これも、全然ゼロ円じゃなくて、携帯の本体の料金を2年契約のローンで支払っていっているだけで、トータルの支払金額は何も変わっていません。実質ゼロ円という実体のあるような内容な表現を使うことで、あたかも支払金額が大幅に減っているかのような錯覚を起こさせています。これも言葉をすり替えて商売している例ではないかと思います。

 

 学校でよくある”いじめ”っていう言葉だって、具体的に起こっていることは結局暴行だったり傷害だったりするわけで、表現をマイルドにするために使っている表現が、起こった出来事まで正しく認識させない弊害になっていることはあります。

 援助交際なんて単語がそういえばありましたが、あれは交際じゃなくて、売春だし、万引きだって、まるで子供がいたずらしただけのような印象を与えますが、窃盗です。それっぽい単語を作ってわかりやすいようにしてしまっていて、現実を直視できないようになっているような気がします。

 

 最近の国会で紛糾している安保法制だって、憲法解釈を政府が都合のいいようにして、うまく(?)言葉をすり替えてその場をしのいで言っているだけですし、結局何か事が起こった時にも結局言い逃れをするだけなのは自明です。”後方支援”っていってあたかも後ろのほうで戦争とは関係ない場所に自衛隊を派遣するような印象を持たせていますが、結局あれも別な言葉で言えば兵站なわけだし。

 

 なんでもっと直接的な表現を使わないのかなと思うことがしばしばあります。察しろ的な何かがいつもどこかにある。相手の意思に任せると言いつつ、自分の思う通りの判断をしない場合は意見が通らなかったり、既に決定している事項なのに形だけ相手の意見を聞いたりすることは仕事上よくあります。

 

 文化的には察しろ文化はそれでいいのかもしれないけど、ビジネスライクにやらなきゃいけない場面でもこういう言葉遊びというかすり替えが常態化しているのは、健全じゃないと感じます。